――17時「それじゃ、お母さん。また来るね」面会時間が終わり、朱莉は母に声をかけて席を立つと呼び止められた。「あ、あのね……朱莉。実は今度の週末、1日だけ外泊許可が取れたのよ」「え? 本当なの!? お母さん!」朱莉は顔をほころばせて母の顔を見た。「え、ええ……。それで朱莉、貴女の住むお部屋に泊らせて貰っても大丈夫かしら?」「!」母の言葉に朱莉は一瞬息が止まりそうになったが、何とか平常心を保ちながら返事をした。「うん、勿論大丈夫に決まってるでしょう?」朱莉はニコリと笑顔を見せると母に手を振って病室を後にした——****(どうしよう……)朱莉は暗い気持ちで町を歩いていた。母が外泊することが出来るまでに体調が回復したと言うことは朱莉にとって、とても喜ばことことであった。だが、それが朱莉の住む部屋を母が訪れるなると話は全くの別物になってくる。母があの自宅を見たら、朱莉が1人であの部屋に住んでいると言うことがすぐにばれてしまう。かと言って翔にその日だけでも朱莉の自宅に来てもらえないかと頼めるはずも無い。……どうしよう? いっそのこと母に事実を話してしまおうか?実は翔との結婚は書類上だけで、実際はただの契約婚だと言うことを。だけど……。(駄目……本当のことなんかお母さんに話せるはずが無い。きっと心配するに決まっているし、そのせいでまた具合が悪くなってしまうかもしれない。折角体調が良くなってきたっていうのに……。そうだ、いっそのこと翔先輩は突然海外出張で不在だって嘘をついてみる……?)だが、あの部屋はどう見ても翔の存在感がまるで無い。一応食器類は翔の分として用意はしてあるし、クローゼットにも服は入っている。だけど……やはりどんなに取り繕ってみても所詮女の1人暮らしのイメージが拭い去れないのは事実であった。「どうしよう……」気付けばいつの間にか朱莉は自分が住む億ションへと辿り着いていた。そして改めてタワー億ションを見上げる。「馬鹿だな……私……。結局私自身もここに仮住まいさせて貰っている身分だって言うのに……」暗い気持ちでエレベーターに乗り込むと、今後の事を考えた。どうしよう。やはり母には何か言い訳を考えて、ここには連れて来ない方がいいかもしれない。それならどうする? いっそ……何処か都心の高級ホテルを借りて、そこに母と二人で泊ま
その頃――まだ翔と琢磨はオフィスに残って残務処理をしていた。「参ったな……役員会議で新たな問題が出てくるとは…‥」翔は頭を抱えながら資料を見直している。「仕方がないさ。常に社会は動いているんだ。こういう時もあるだろう? それより翔。お前、そろそろ帰らなくてもいいのか? 明日香ちゃんを1人にしておいて大丈夫なのか?」琢磨は目を通していた資料から視線を翔に移した。「ああ、今夜は大丈夫なんだ。家政婦さんが朝まで泊まり込んでくれるからな」明日香が流産をしてから翔は家政婦協会に依頼し、翔の帰りが遅くなりそうなときは泊まり込みで家政婦を派遣してもらえるように頼んでおいたのだ。「ふ~ん……なら安心だな」その時、突然琢磨のスマホが着信を知らせた。琢磨はスマホを手に取るとドキリとした。「朱莉さん……」今までは普通に朱莉からのメッセージを受け取っていたのに、今夜に限って何故心臓が一瞬跳ね上がるかのように感じる。琢磨は自分の気持ちが良く分からなくなっていた。「朱莉さんからなのか? 何て言ってきてるんだ? と言うか……そうだ、琢磨。最近明日香も以前に比べると大分朱莉さんに対して気持ちが軟化してきてるんだ。今ならひょっとすると朱莉さんから俺に直接メッセージが届いても、もう何も言わないかもしれない。だから朱莉さんに伝えてくれないか? これからは俺に直接メッセージを送ってもらって構わないって」しかし、琢磨は翔の言葉に何故か苛立ちを覚えた。(何を言ってるんだ? 今まで散々明日香ちゃんに気を使って朱莉さんとの直接のやり取りを拒否してきたくせにここにきて突然そんなことを言い出すなんて……)「いや、いい。もしかするとこのメッセージは俺自身に用があってよこしているかもしれないだろう?」「ふ~ん……? 分かったよ。お前に任せる」そして翔がPC画面を見つめている時、琢磨が髪をかき上げながら苛立ちの声を上げた。「くそっ!」「どうしたんだ? 琢磨。朱莉さんのメッセージでそんな風に苛立つなんて一体何があったんだ?」翔が声をかけると、琢磨がため息をついた。「朱莉さんのお母さんが今週病院から外泊許可を貰って朱莉さん宅へ来たいと言ってるらしいんだ。だけど……。お前、普段からあの自宅には住んでいないだろう? 朱莉さん曰く、お前の生活感が全く無い部屋だと言っている。それにお前だ
しかし、翔は琢磨の怒りに気付かずに続ける。「だから反省してるんだ。それに今の明日香ならきっと分かってくれるさ。週末は俺が朱莉さんの家へ行く。それで問題は解決だ」「……」しかし、琢磨は返事をしない。「どうしたんだ? 琢磨?」「お前……ふざけるなよ……」怒りを抑えた声色で琢磨は賞を睨みつけた。「どうした? 何かお前、怒っていないか?」「別に……ならお前から朱莉さんにメッセージを送ってやれ」ぶっきらぼうに言うと翔は頷いた。「そうだな。なら今ここで朱莉さんに電話をかけよう」(で……電話だって!? 俺だって、そうそう簡単に朱莉さんに電話を掛けられないのに!?)その瞬間琢磨は自分自身に驚いた。(え……? 一体俺は今何を思ったんだ……?)琢磨の様子がおかしいことに気付いた翔が尋ねてきた。「琢磨、どうしたんだ? 何だか顔色が悪いぞ? 戸締りはしていくからお前、先に帰れよ」翔は朱莉との連絡専用のスマホを手にしている。琢磨は一瞬そのスマホを恨めしい目で見つめ、首を振った。「ああ。分かった。先に帰らせてもらう。悪いな……」正直な話、今夜はこれ以上ここにいたくないと思った。今から翔は朱莉に電話を掛けるのだ。その会話を傍で聞くのは正直な話、辛いと琢磨は感じていたからだ。「悪い、それじゃ先に帰るな」上着を羽織り、カバンを持つと翔に背を向けた。「ああ。気を付けて帰れよ」ドアを閉めると、翔が電話で話す声が聞こえてきた。その声をむなしい気持ちで聞き……琢磨はオフィスを後にした。 外に出ると、いつの間にか小雪がちらついていた。「3月なのに……雪が……」琢磨は白い息を吐きながら高層ビルが立ち並ぶ空を見上げる。「朱莉さん……」(結局、俺が朱莉さんにしてあげられることって……殆ど無いのか……)小さくため息をつくと、足早に街頭が光り輝く町の雑踏を歩き始めた――**** 同時刻——朱莉は翔からの電話を受けていた。「え……ええっ!? ほ、本当によろしいのですか? 翔さん」まさか翔の方から朱莉の部屋へ来てくれるとは思ってもいなかったので朱莉は信じられない気持ちで一杯だった。『ああ、勿論だよ。今まで一度も朱莉さんのお母さんとは会ったことは無かったからね。本当にすまなかった。やっとご挨拶することが出来るよ』受話器越しから聞こえてくる翔の声は優しか
土曜日――今日は朱莉の母が入院してからの初めての外泊日であり、更に翔が朱莉の自宅へやって来る最初の日でもった。朱莉は興奮のあまり、今朝は5時に目が覚めてしまったくらいである。そこで朱莉は部屋中を綺麗にするために掃除を始め……気付けば朝の8時になっていた。「あ、もうこんな時間だったんだ!」朱莉はお湯を沸かし、トーストとサラダ、コーヒーで朝食を手早くとると出掛ける準備を始めた。「それじゃ、出掛けて来るね。フフ……次に帰って来る時はお客さんが2人いるからね? 驚かないでね?」サークルの中に入っているウサギのネイビーの背中を撫でて声をかけた。コートを羽織り、ショルダーバックを肩から下げるとはやる気持ちを押さえながら母の入院している病院へと向かおう億とションを出て……朱莉は足を止めた。「え……?」億ションの前には車が止められており、そこには見知った人物が立っていたからである。(まさか………?)「く、九条さん? 一体何故ここに……?」すると、琢磨は笑顔で答えた。「おはよう、朱莉さん。今日はお母さんの外泊日だろう? だから迎えに来たよ。って言うか……翔から頼まれてね。朱莉さんを病院まで送って、お母さんを連れ帰ってきてくれないかって」「え……? 翔さんが?」朱莉が頬を染めて嬉しそうに微笑む姿を琢磨は複雑な表情で眺めた。しかし、事実は違った——**** それは昨日の昼休みの出来事――「明日は朱莉さんのお母さんが外泊をする日だろう? どうするんだ?」琢磨がキッチンカーで購入して来たタコライスを口にしながら尋ねた。「うん? 明日は朱莉さんがお母さんを病院から自宅へ連れて帰る事になっているぞ? 多分タクシーで帰って来るんじゃないかな?」翔はロコモコ丼を美味しそうに口に運んだ。「何? 翔……お前、もしかして一緒に病院へ迎えに行かないつもりなのか?」琢磨は鋭い目つきで翔を見た。「ああ。そうだが?」「おい! 何故一緒に朱莉さんと病院へ向かわないんだ? 書面上とはいえお前と朱莉さんは夫婦なんだから、普通は一緒に迎えに行くだろう? しかも朱莉さんのお母さんは病人なんだから、車で迎えに行くべきだと思わないのか?」怒気を含んだ琢磨の物言いに戸惑う翔。「どうしたんだ? 何もそれ程怒ることか? それに無理を言わないでくれよ……。朱莉さんの部屋へ泊る事を
「あの…九条さん、本当に車を出していただいてよろしいのでしょうか?」朱莉の躊躇いがちな言葉に琢磨は我に帰った。「勿論だよ。俺は翔の秘書だからな。朱莉さんのお母さんに挨拶するのは当然だと思っているし、翔が病院まで迎えに行けないのなら、俺が行くのは当たり前だと思ってるよ」自分でもかなり滅茶苦茶なことを言ってるとは思ったが、琢磨は少しでも朱莉の役に立ちたかった。「そこまでおっしゃっていただけるなんて光栄です。それに翔さんにも感謝しないといけませんね」朱莉が笑みを浮かべながら、翔の名を口にした事に琢磨の胸は少しだけ痛んだ。「それじゃ、行こうか? 朱莉さんも乗って」琢磨は朱莉を車に乗るように促した。「お邪魔します」朱莉が助手席に乗り込むと、琢磨も運転席に座りシートベルトを締める。「よし、行こう」そして琢磨はアクセルを踏んだ―—****「九条さんはお休みの日はもしかしてドライブとか出掛けたりするんですか?」車内で朱莉が尋ねてきた。「うん? ドライブか……。そうだな~月1、2回は行くかな? 友人を誘う時もあるし、1人で出かける時もあるし……」「そうなんですか。やはりお忙しいからドライブもなかなか出来ないってことですか?」「いや。そうじゃないよ。俺は休みの日はあまり外出をすることが無いだけだよ。大体家で過ごしているかな。好きな映画を観たり、本を読んだり……。月に何度も出張があったりするから家にいるのが好きなのかもな」「そうですか……。私は普段から自宅に居ることが多いからお休みの日は出来るだけ外出したいと思っているんです。だから、実は今度翔さんに教習所に通わせて貰おうかと思っているんです。それで免許が取れたら車を買いたいなって……。あ、も、勿論車は翔さんから振り込んでいただいたお金で買うつもりですけど」朱莉の話に琢磨は目を見開いた。「朱莉さん……何を言ってるんだ? 車だって翔のお金で買えばいいじゃないか。何度も言うが、朱莉さんは書類上はれっきとした翔の妻なんだから。もし車を買いたいってことが言いにくいなら俺から翔に伝えてあげるよ。それに……外出をするのが好きなら俺でよければ……」そこまで言うと琢磨は言葉を飲み込んだ。「え? 九条さん。今何か言いかけましたか?」「い、いや。何でもないよ。ほら、朱莉さん。病院が見えてきたよ」琢磨はわざと明
「お母さん、迎えに来たよ」朱莉は笑顔で母の病室へとやって来た。「あら、朱莉。早かったのね。でも嬉しいわ。貴女と一緒に1日過ごせるなんて何年ぶりかしらね?」洋子はもうすでに外泊の準備が出来ていた。いつものパジャマ姿では無く、ブラウスにセーター、そしてスカート姿でベッドの上に座り、朱莉を待っていたのだ。朱莉の後ろから琢磨が病室へと入って来ると挨拶をした。「初めまして。朱莉さんのお母様ですね。私は……」すると洋子が目を見開いた。「まあ! 貴方が翔さんですね? 初めまして、私は朱莉の母の洋子と申します。いつも娘が大変お世話になっております」「お母さん、待って、違うのよ。この方は……」挨拶をする洋子を見て朱莉は慌てると、琢磨が自己紹介を始めた。「私は鳴海副社長の秘書を務めている九条琢磨と申します。本日は多忙な副社長に代わり、お迎えに上がりました。どうぞよろしくお願いいたします」そして深々と頭を下げた。「まあ、そうだったのですね? 申し訳ございませんでした。私ったらすっかり勘違いをしておりまして」洋子は自分の勘違いを詫び、頬を染めた。「いえ、勘違いされるのも無理はありません。それでは参りましょうか? お荷物はこれだけですか?」琢磨はテーブルの上に置かれているボストンバックを指さした。「はい。そうです」洋子が返事をすると、琢磨はボストンバックを持って先頭を歩き、朱莉と恵美子がその後ろに続いて並んで歩く。洋子が朱莉に小声で囁いた。「嫌だわ……私ったらすっかり勘違いをしてしまって」「いいのよ、お母さん。だって分からなくて当然よ」朱莉は笑みを浮かべる。「え、ええ……。そうよね。でも……改めて鳴海って苗字を聞くと、何処かで聞き覚えがある気がするわ」洋子は首を傾げたが、朱莉はそれには答えずに話題を変えた。「ねえ、お母さん。今夜はね、お母さんの好きなクリームシチューを作るから楽しみにしていてね?」「ありがとう。朱莉」****「今、正面玄関に車を回してくるので、こちらでお待ちください」琢磨は朱莉と洋子に言うと、足早に駐車場へと向かっていく。その後姿を見送りながら、洋子が朱莉に言った。「あの九条さんと言う方……すごく素敵な方ね?」「うん。そうなのよ。だけど今はお付き合いしている女性がいないみたいなの」「そうなのね。誰か好きな女性でも
やがて車は朱莉の住む億ションへと到着した。車から降りた朱莉の母はその余りの豪勢な億ションに驚いていた。「朱莉……。貴女、こんな立派な家に住んでいたの?」「う、うん。そうなの」朱莉は少しだけ目を伏せる。(ごめんね……お母さん。ここは私の家じゃないの。将来的には翔先輩と明日香さんが2人で一緒に暮らす家なの)「朱莉? どうかしたの?」母は朱莉の様子に異変を感じ、声をかけると琢磨が即座に話しかけてきた。「あの、それでは私はこれで失礼いたしますね。直に副社長もいらっしゃると思いますので」「まあ、ここでお別れなのですか? どうも色々と有難うございました。え……と……?」朱莉の母が言い淀むと琢磨が笑みを浮かべる。「九条です。九条琢磨と申します」「九条さんですね? 本当に今日はお迎えに来ていただき、ありがとうございました」「いいえ、とんでもございません。それではまた何かありましたらいつでもご連絡下さい。それでは失礼いたします」そして琢磨が背を向けて車に戻ろうとした時。「九条さん」朱莉が琢磨に声をかけた。琢磨が振り向くと、そこには笑みを称えた朱莉が見つめていた。「九条さん。本当に今日はありがとうございました」「! い、いえ……」琢磨は視線を逸らせると、まるで逃げるように車に乗り込み、そのまま走り去って行った。「どうしたんだろう……? 九条さん。あんなに急いで帰って行くなんて」「秘書のお仕事をされているそうだから忙しいんじゃないかしら?」「うん。そうだね」(今度九条さんに何かお礼をしないと……)朱莉は母に声をかけた。「お母さん、それじゃ私の住まいに案内するね」**** エレベーターに乗り、玄関のドアを開けるまで、朱莉はずっと不安だった。母から今週外泊許可が下りたという話が出てから、翔が朱莉と一緒に住んでいるかと思わせる為の痕跡づくりに奔走していた。朱莉はお酒を飲むことは殆ど無いが、ウィスキーやワインを買って棚にしまったり、ビールのジョッキやカクテルグラスも用意した。さらに男性用化粧水やシャンプー剤を取り揃え、何とか母にバレないようにする為に必要と思われるありとあらゆる品を買い、まるでモデルルームのようにすっきりしている部屋も大分生活感溢れる部屋へと変わっていたのだ。「さあ、お母さん。着いたよ、中に入って」朱莉は自分の部屋に
「ほら、お母さん。この子がペットのネイビーよ?」朱莉は笑顔でネイビーを抱きかかえると洋子に触らせた。「まあ! 何て可愛いのかしら……フフフ」洋洋子は笑顔でネイビーを撫でながら、朱莉の顔をチラリと見た。(朱莉……貴女はいつもこんなに広い部屋で一人ぼっちで暮していたの? もしかして貴女の結婚て何か意味があるの? どうして何も説明してくれないのかしら……?)「どうしたの? お母さん。さっきから私の顔をじっと見て……」「あ、いいえ。何でもないの。ただ病院以外で朱莉の顔を見るのは久しぶりだと思って」「そんなことだったの? 嫌だなあ。お母さんたら。今日外泊出来たってことは大分身体が良くなったってことでしょう? きっとこれからも外泊出来る日が増えてくるに決まってるんだから。ね?」「え、ええ。そうね」洋子は曖昧に笑ったが、実際は体調が良くなったというわけでは無かったのだ。朱莉のことがどうしても心配で、無理を言って1泊だけ外泊許可を病院から貰ってきたのであった。「それじゃお母さんはリビングで休んでて。すぐに夕食の準備をするから」「ええ、分かったわ。それじゃお言葉に甘えて休ませてもらうわね」朱莉が台所で料理をする音を聞きながら洋子はリビングへ向かった。リビングルームもとても広く、置かれた家具はどれも上質の物ばかりだったが、その全てが洋子の目には作り物の……まるでモデルルームのようにしか見えなかった。この部屋には、若い新婚夫婦の甘さ等一切無い、冷たく冷え切った部屋にしか感じられなかったのだ。(朱莉……貴女……本当に大丈夫なの……?)洋子は食事が出来るまでリビングで休みながら、娘の身を案じて心を痛めていた。鳴海翔……。洋子はその名前を何処かで聞いた覚えがあった。でも……それはいつのことだったのだろう? だが、大切な一人娘をこのような孤独な境遇に置くなんて。きっと冷たい人物に違いない。そしてそれとは逆に秘書を務めているという琢磨のことを考えていた。(ああいう男性だったなら安心して朱莉を任せることが出来るのに……世の中はうまくいかないものなのね……)やがて、洋子がウトウトしかけていた時、朱莉の声が聞こえてきた。「お母さん……大丈夫? 今シチューが出来たんだけど」「ああ……ごめんなさいね。うっかり眠ってしまったみたいで」「ううん、いいのよ。それでど
(え……? 鳴海……翔……? この顔、以前何処かで見た気がする。でも……一体何処で……?)その時、朱莉が声をかけてきた。「あの、それじゃ食事の準備が出来たので皆で食べましょう?」「ああ、そうだね。へえ~すごく美味しそうだ」琢磨は笑顔で食卓に着くと、朱莉は顔を赤らめて翔の隣に座った。そんな様子を見て洋子は思った。(朱莉はこの男性のことが好きなのね。でも何故かしら? 私としては病院迄来てくれた男性の方が好ましいと思うけど……)食卓にはシチューとマッシュルームとベーコンのバターライス、サーモンとアボガドのサラダが用意されていた。朱莉は生れて初めて、翔を交えた母と3人の食卓を囲んだ。朱莉の胸は幸せで一杯だった。ずっと片思いをしていた翔と、そして大好きな母と3人で今、こうして食事をしているのが、まるで夢のようだった。翔は始終優しい笑顔で朱莉と、朱莉の母に自分の趣味や仕事のことを話して聞かせてくれた。やがて食事も終わり、洋子は奥のリビングで休んでいた。そして朱莉が片づけを始め、翔が手伝おうとしていたその時……。突然翔のスマホが鳴り響いた。それを手にした翔の顔色が変わったのを朱莉は見逃さなかった。「翔さん……その電話、明日香さんからじゃないですか?」朱莉は翔に尋ねた。「あ、ああ……。そうなんだ……」翔は困ったように朱莉を見た。「どうぞ、電話に出てあげてください。明日香さん、何か困ったことが起きてるかもしれませんし」「あ、ああ……すまない。朱莉さん」言うと翔はスマホを手に取った。「もしもし……。明日香? どうした? おい、明日香! 返事をしろっ! ……くそっ!」その声にリビングで休んでいた洋子も何事かとやって来た。翔は電話を切ると朱莉に向き直った。「すまない。朱莉さん。……明日香の返事が返ってこないんだ。何かあったのかもしれない……。本当に申し訳ないが……」「ええ、私なら大丈夫です。どうぞ明日香さんの元へ行ってあげて下さい」朱莉の言葉に洋子は驚いた。「え!? 明日香さんて……一体誰のことなの!?」すると翔は頭を下げた。「お母さん……本当に申し訳ございません。明日香が苦しんでいるのです。すみませんが、彼女の元へ行かせて下さい!」そして頭を下げると、朱莉の方を振り向いた。「朱莉さんも……本当に……ごめん!」翔は上着を掴むと足早
「ほら、お母さん。この子がペットのネイビーよ?」朱莉は笑顔でネイビーを抱きかかえると洋子に触らせた。「まあ! 何て可愛いのかしら……フフフ」洋洋子は笑顔でネイビーを撫でながら、朱莉の顔をチラリと見た。(朱莉……貴女はいつもこんなに広い部屋で一人ぼっちで暮していたの? もしかして貴女の結婚て何か意味があるの? どうして何も説明してくれないのかしら……?)「どうしたの? お母さん。さっきから私の顔をじっと見て……」「あ、いいえ。何でもないの。ただ病院以外で朱莉の顔を見るのは久しぶりだと思って」「そんなことだったの? 嫌だなあ。お母さんたら。今日外泊出来たってことは大分身体が良くなったってことでしょう? きっとこれからも外泊出来る日が増えてくるに決まってるんだから。ね?」「え、ええ。そうね」洋子は曖昧に笑ったが、実際は体調が良くなったというわけでは無かったのだ。朱莉のことがどうしても心配で、無理を言って1泊だけ外泊許可を病院から貰ってきたのであった。「それじゃお母さんはリビングで休んでて。すぐに夕食の準備をするから」「ええ、分かったわ。それじゃお言葉に甘えて休ませてもらうわね」朱莉が台所で料理をする音を聞きながら洋子はリビングへ向かった。リビングルームもとても広く、置かれた家具はどれも上質の物ばかりだったが、その全てが洋子の目には作り物の……まるでモデルルームのようにしか見えなかった。この部屋には、若い新婚夫婦の甘さ等一切無い、冷たく冷え切った部屋にしか感じられなかったのだ。(朱莉……貴女……本当に大丈夫なの……?)洋子は食事が出来るまでリビングで休みながら、娘の身を案じて心を痛めていた。鳴海翔……。洋子はその名前を何処かで聞いた覚えがあった。でも……それはいつのことだったのだろう? だが、大切な一人娘をこのような孤独な境遇に置くなんて。きっと冷たい人物に違いない。そしてそれとは逆に秘書を務めているという琢磨のことを考えていた。(ああいう男性だったなら安心して朱莉を任せることが出来るのに……世の中はうまくいかないものなのね……)やがて、洋子がウトウトしかけていた時、朱莉の声が聞こえてきた。「お母さん……大丈夫? 今シチューが出来たんだけど」「ああ……ごめんなさいね。うっかり眠ってしまったみたいで」「ううん、いいのよ。それでど
やがて車は朱莉の住む億ションへと到着した。車から降りた朱莉の母はその余りの豪勢な億ションに驚いていた。「朱莉……。貴女、こんな立派な家に住んでいたの?」「う、うん。そうなの」朱莉は少しだけ目を伏せる。(ごめんね……お母さん。ここは私の家じゃないの。将来的には翔先輩と明日香さんが2人で一緒に暮らす家なの)「朱莉? どうかしたの?」母は朱莉の様子に異変を感じ、声をかけると琢磨が即座に話しかけてきた。「あの、それでは私はこれで失礼いたしますね。直に副社長もいらっしゃると思いますので」「まあ、ここでお別れなのですか? どうも色々と有難うございました。え……と……?」朱莉の母が言い淀むと琢磨が笑みを浮かべる。「九条です。九条琢磨と申します」「九条さんですね? 本当に今日はお迎えに来ていただき、ありがとうございました」「いいえ、とんでもございません。それではまた何かありましたらいつでもご連絡下さい。それでは失礼いたします」そして琢磨が背を向けて車に戻ろうとした時。「九条さん」朱莉が琢磨に声をかけた。琢磨が振り向くと、そこには笑みを称えた朱莉が見つめていた。「九条さん。本当に今日はありがとうございました」「! い、いえ……」琢磨は視線を逸らせると、まるで逃げるように車に乗り込み、そのまま走り去って行った。「どうしたんだろう……? 九条さん。あんなに急いで帰って行くなんて」「秘書のお仕事をされているそうだから忙しいんじゃないかしら?」「うん。そうだね」(今度九条さんに何かお礼をしないと……)朱莉は母に声をかけた。「お母さん、それじゃ私の住まいに案内するね」**** エレベーターに乗り、玄関のドアを開けるまで、朱莉はずっと不安だった。母から今週外泊許可が下りたという話が出てから、翔が朱莉と一緒に住んでいるかと思わせる為の痕跡づくりに奔走していた。朱莉はお酒を飲むことは殆ど無いが、ウィスキーやワインを買って棚にしまったり、ビールのジョッキやカクテルグラスも用意した。さらに男性用化粧水やシャンプー剤を取り揃え、何とか母にバレないようにする為に必要と思われるありとあらゆる品を買い、まるでモデルルームのようにすっきりしている部屋も大分生活感溢れる部屋へと変わっていたのだ。「さあ、お母さん。着いたよ、中に入って」朱莉は自分の部屋に
「お母さん、迎えに来たよ」朱莉は笑顔で母の病室へとやって来た。「あら、朱莉。早かったのね。でも嬉しいわ。貴女と一緒に1日過ごせるなんて何年ぶりかしらね?」洋子はもうすでに外泊の準備が出来ていた。いつものパジャマ姿では無く、ブラウスにセーター、そしてスカート姿でベッドの上に座り、朱莉を待っていたのだ。朱莉の後ろから琢磨が病室へと入って来ると挨拶をした。「初めまして。朱莉さんのお母様ですね。私は……」すると洋子が目を見開いた。「まあ! 貴方が翔さんですね? 初めまして、私は朱莉の母の洋子と申します。いつも娘が大変お世話になっております」「お母さん、待って、違うのよ。この方は……」挨拶をする洋子を見て朱莉は慌てると、琢磨が自己紹介を始めた。「私は鳴海副社長の秘書を務めている九条琢磨と申します。本日は多忙な副社長に代わり、お迎えに上がりました。どうぞよろしくお願いいたします」そして深々と頭を下げた。「まあ、そうだったのですね? 申し訳ございませんでした。私ったらすっかり勘違いをしておりまして」洋子は自分の勘違いを詫び、頬を染めた。「いえ、勘違いされるのも無理はありません。それでは参りましょうか? お荷物はこれだけですか?」琢磨はテーブルの上に置かれているボストンバックを指さした。「はい。そうです」洋子が返事をすると、琢磨はボストンバックを持って先頭を歩き、朱莉と恵美子がその後ろに続いて並んで歩く。洋子が朱莉に小声で囁いた。「嫌だわ……私ったらすっかり勘違いをしてしまって」「いいのよ、お母さん。だって分からなくて当然よ」朱莉は笑みを浮かべる。「え、ええ……。そうよね。でも……改めて鳴海って苗字を聞くと、何処かで聞き覚えがある気がするわ」洋子は首を傾げたが、朱莉はそれには答えずに話題を変えた。「ねえ、お母さん。今夜はね、お母さんの好きなクリームシチューを作るから楽しみにしていてね?」「ありがとう。朱莉」****「今、正面玄関に車を回してくるので、こちらでお待ちください」琢磨は朱莉と洋子に言うと、足早に駐車場へと向かっていく。その後姿を見送りながら、洋子が朱莉に言った。「あの九条さんと言う方……すごく素敵な方ね?」「うん。そうなのよ。だけど今はお付き合いしている女性がいないみたいなの」「そうなのね。誰か好きな女性でも
「あの…九条さん、本当に車を出していただいてよろしいのでしょうか?」朱莉の躊躇いがちな言葉に琢磨は我に帰った。「勿論だよ。俺は翔の秘書だからな。朱莉さんのお母さんに挨拶するのは当然だと思っているし、翔が病院まで迎えに行けないのなら、俺が行くのは当たり前だと思ってるよ」自分でもかなり滅茶苦茶なことを言ってるとは思ったが、琢磨は少しでも朱莉の役に立ちたかった。「そこまでおっしゃっていただけるなんて光栄です。それに翔さんにも感謝しないといけませんね」朱莉が笑みを浮かべながら、翔の名を口にした事に琢磨の胸は少しだけ痛んだ。「それじゃ、行こうか? 朱莉さんも乗って」琢磨は朱莉を車に乗るように促した。「お邪魔します」朱莉が助手席に乗り込むと、琢磨も運転席に座りシートベルトを締める。「よし、行こう」そして琢磨はアクセルを踏んだ―—****「九条さんはお休みの日はもしかしてドライブとか出掛けたりするんですか?」車内で朱莉が尋ねてきた。「うん? ドライブか……。そうだな~月1、2回は行くかな? 友人を誘う時もあるし、1人で出かける時もあるし……」「そうなんですか。やはりお忙しいからドライブもなかなか出来ないってことですか?」「いや。そうじゃないよ。俺は休みの日はあまり外出をすることが無いだけだよ。大体家で過ごしているかな。好きな映画を観たり、本を読んだり……。月に何度も出張があったりするから家にいるのが好きなのかもな」「そうですか……。私は普段から自宅に居ることが多いからお休みの日は出来るだけ外出したいと思っているんです。だから、実は今度翔さんに教習所に通わせて貰おうかと思っているんです。それで免許が取れたら車を買いたいなって……。あ、も、勿論車は翔さんから振り込んでいただいたお金で買うつもりですけど」朱莉の話に琢磨は目を見開いた。「朱莉さん……何を言ってるんだ? 車だって翔のお金で買えばいいじゃないか。何度も言うが、朱莉さんは書類上はれっきとした翔の妻なんだから。もし車を買いたいってことが言いにくいなら俺から翔に伝えてあげるよ。それに……外出をするのが好きなら俺でよければ……」そこまで言うと琢磨は言葉を飲み込んだ。「え? 九条さん。今何か言いかけましたか?」「い、いや。何でもないよ。ほら、朱莉さん。病院が見えてきたよ」琢磨はわざと明
土曜日――今日は朱莉の母が入院してからの初めての外泊日であり、更に翔が朱莉の自宅へやって来る最初の日でもった。朱莉は興奮のあまり、今朝は5時に目が覚めてしまったくらいである。そこで朱莉は部屋中を綺麗にするために掃除を始め……気付けば朝の8時になっていた。「あ、もうこんな時間だったんだ!」朱莉はお湯を沸かし、トーストとサラダ、コーヒーで朝食を手早くとると出掛ける準備を始めた。「それじゃ、出掛けて来るね。フフ……次に帰って来る時はお客さんが2人いるからね? 驚かないでね?」サークルの中に入っているウサギのネイビーの背中を撫でて声をかけた。コートを羽織り、ショルダーバックを肩から下げるとはやる気持ちを押さえながら母の入院している病院へと向かおう億とションを出て……朱莉は足を止めた。「え……?」億ションの前には車が止められており、そこには見知った人物が立っていたからである。(まさか………?)「く、九条さん? 一体何故ここに……?」すると、琢磨は笑顔で答えた。「おはよう、朱莉さん。今日はお母さんの外泊日だろう? だから迎えに来たよ。って言うか……翔から頼まれてね。朱莉さんを病院まで送って、お母さんを連れ帰ってきてくれないかって」「え……? 翔さんが?」朱莉が頬を染めて嬉しそうに微笑む姿を琢磨は複雑な表情で眺めた。しかし、事実は違った——**** それは昨日の昼休みの出来事――「明日は朱莉さんのお母さんが外泊をする日だろう? どうするんだ?」琢磨がキッチンカーで購入して来たタコライスを口にしながら尋ねた。「うん? 明日は朱莉さんがお母さんを病院から自宅へ連れて帰る事になっているぞ? 多分タクシーで帰って来るんじゃないかな?」翔はロコモコ丼を美味しそうに口に運んだ。「何? 翔……お前、もしかして一緒に病院へ迎えに行かないつもりなのか?」琢磨は鋭い目つきで翔を見た。「ああ。そうだが?」「おい! 何故一緒に朱莉さんと病院へ向かわないんだ? 書面上とはいえお前と朱莉さんは夫婦なんだから、普通は一緒に迎えに行くだろう? しかも朱莉さんのお母さんは病人なんだから、車で迎えに行くべきだと思わないのか?」怒気を含んだ琢磨の物言いに戸惑う翔。「どうしたんだ? 何もそれ程怒ることか? それに無理を言わないでくれよ……。朱莉さんの部屋へ泊る事を
しかし、翔は琢磨の怒りに気付かずに続ける。「だから反省してるんだ。それに今の明日香ならきっと分かってくれるさ。週末は俺が朱莉さんの家へ行く。それで問題は解決だ」「……」しかし、琢磨は返事をしない。「どうしたんだ? 琢磨?」「お前……ふざけるなよ……」怒りを抑えた声色で琢磨は賞を睨みつけた。「どうした? 何かお前、怒っていないか?」「別に……ならお前から朱莉さんにメッセージを送ってやれ」ぶっきらぼうに言うと翔は頷いた。「そうだな。なら今ここで朱莉さんに電話をかけよう」(で……電話だって!? 俺だって、そうそう簡単に朱莉さんに電話を掛けられないのに!?)その瞬間琢磨は自分自身に驚いた。(え……? 一体俺は今何を思ったんだ……?)琢磨の様子がおかしいことに気付いた翔が尋ねてきた。「琢磨、どうしたんだ? 何だか顔色が悪いぞ? 戸締りはしていくからお前、先に帰れよ」翔は朱莉との連絡専用のスマホを手にしている。琢磨は一瞬そのスマホを恨めしい目で見つめ、首を振った。「ああ。分かった。先に帰らせてもらう。悪いな……」正直な話、今夜はこれ以上ここにいたくないと思った。今から翔は朱莉に電話を掛けるのだ。その会話を傍で聞くのは正直な話、辛いと琢磨は感じていたからだ。「悪い、それじゃ先に帰るな」上着を羽織り、カバンを持つと翔に背を向けた。「ああ。気を付けて帰れよ」ドアを閉めると、翔が電話で話す声が聞こえてきた。その声をむなしい気持ちで聞き……琢磨はオフィスを後にした。 外に出ると、いつの間にか小雪がちらついていた。「3月なのに……雪が……」琢磨は白い息を吐きながら高層ビルが立ち並ぶ空を見上げる。「朱莉さん……」(結局、俺が朱莉さんにしてあげられることって……殆ど無いのか……)小さくため息をつくと、足早に街頭が光り輝く町の雑踏を歩き始めた――**** 同時刻——朱莉は翔からの電話を受けていた。「え……ええっ!? ほ、本当によろしいのですか? 翔さん」まさか翔の方から朱莉の部屋へ来てくれるとは思ってもいなかったので朱莉は信じられない気持ちで一杯だった。『ああ、勿論だよ。今まで一度も朱莉さんのお母さんとは会ったことは無かったからね。本当にすまなかった。やっとご挨拶することが出来るよ』受話器越しから聞こえてくる翔の声は優しか
その頃――まだ翔と琢磨はオフィスに残って残務処理をしていた。「参ったな……役員会議で新たな問題が出てくるとは…‥」翔は頭を抱えながら資料を見直している。「仕方がないさ。常に社会は動いているんだ。こういう時もあるだろう? それより翔。お前、そろそろ帰らなくてもいいのか? 明日香ちゃんを1人にしておいて大丈夫なのか?」琢磨は目を通していた資料から視線を翔に移した。「ああ、今夜は大丈夫なんだ。家政婦さんが朝まで泊まり込んでくれるからな」明日香が流産をしてから翔は家政婦協会に依頼し、翔の帰りが遅くなりそうなときは泊まり込みで家政婦を派遣してもらえるように頼んでおいたのだ。「ふ~ん……なら安心だな」その時、突然琢磨のスマホが着信を知らせた。琢磨はスマホを手に取るとドキリとした。「朱莉さん……」今までは普通に朱莉からのメッセージを受け取っていたのに、今夜に限って何故心臓が一瞬跳ね上がるかのように感じる。琢磨は自分の気持ちが良く分からなくなっていた。「朱莉さんからなのか? 何て言ってきてるんだ? と言うか……そうだ、琢磨。最近明日香も以前に比べると大分朱莉さんに対して気持ちが軟化してきてるんだ。今ならひょっとすると朱莉さんから俺に直接メッセージが届いても、もう何も言わないかもしれない。だから朱莉さんに伝えてくれないか? これからは俺に直接メッセージを送ってもらって構わないって」しかし、琢磨は翔の言葉に何故か苛立ちを覚えた。(何を言ってるんだ? 今まで散々明日香ちゃんに気を使って朱莉さんとの直接のやり取りを拒否してきたくせにここにきて突然そんなことを言い出すなんて……)「いや、いい。もしかするとこのメッセージは俺自身に用があってよこしているかもしれないだろう?」「ふ~ん……? 分かったよ。お前に任せる」そして翔がPC画面を見つめている時、琢磨が髪をかき上げながら苛立ちの声を上げた。「くそっ!」「どうしたんだ? 琢磨。朱莉さんのメッセージでそんな風に苛立つなんて一体何があったんだ?」翔が声をかけると、琢磨がため息をついた。「朱莉さんのお母さんが今週病院から外泊許可を貰って朱莉さん宅へ来たいと言ってるらしいんだ。だけど……。お前、普段からあの自宅には住んでいないだろう? 朱莉さん曰く、お前の生活感が全く無い部屋だと言っている。それにお前だ
――17時「それじゃ、お母さん。また来るね」面会時間が終わり、朱莉は母に声をかけて席を立つと呼び止められた。「あ、あのね……朱莉。実は今度の週末、1日だけ外泊許可が取れたのよ」「え? 本当なの!? お母さん!」朱莉は顔をほころばせて母の顔を見た。「え、ええ……。それで朱莉、貴女の住むお部屋に泊らせて貰っても大丈夫かしら?」「!」母の言葉に朱莉は一瞬息が止まりそうになったが、何とか平常心を保ちながら返事をした。「うん、勿論大丈夫に決まってるでしょう?」朱莉はニコリと笑顔を見せると母に手を振って病室を後にした——****(どうしよう……)朱莉は暗い気持ちで町を歩いていた。母が外泊することが出来るまでに体調が回復したと言うことは朱莉にとって、とても喜ばことことであった。だが、それが朱莉の住む部屋を母が訪れるなると話は全くの別物になってくる。母があの自宅を見たら、朱莉が1人であの部屋に住んでいると言うことがすぐにばれてしまう。かと言って翔にその日だけでも朱莉の自宅に来てもらえないかと頼めるはずも無い。……どうしよう? いっそのこと母に事実を話してしまおうか?実は翔との結婚は書類上だけで、実際はただの契約婚だと言うことを。だけど……。(駄目……本当のことなんかお母さんに話せるはずが無い。きっと心配するに決まっているし、そのせいでまた具合が悪くなってしまうかもしれない。折角体調が良くなってきたっていうのに……。そうだ、いっそのこと翔先輩は突然海外出張で不在だって嘘をついてみる……?)だが、あの部屋はどう見ても翔の存在感がまるで無い。一応食器類は翔の分として用意はしてあるし、クローゼットにも服は入っている。だけど……やはりどんなに取り繕ってみても所詮女の1人暮らしのイメージが拭い去れないのは事実であった。「どうしよう……」気付けばいつの間にか朱莉は自分が住む億ションへと辿り着いていた。そして改めてタワー億ションを見上げる。「馬鹿だな……私……。結局私自身もここに仮住まいさせて貰っている身分だって言うのに……」暗い気持ちでエレベーターに乗り込むと、今後の事を考えた。どうしよう。やはり母には何か言い訳を考えて、ここには連れて来ない方がいいかもしれない。それならどうする? いっそ……何処か都心の高級ホテルを借りて、そこに母と二人で泊ま